竹田人形座について

竹田人形座とは

竹田人形座

竹田人形は古い歴史を持ち、寛分年間(1660年頃)に竹田近江掾が大阪の道頓堀に人形芝居の櫓を上げたのが始まりといわれています。この竹田人形は、糸繰りとカラクリ人形として評判をとり、いつも大入り満員を続けた民衆的な人形芝居でした。
今日なお、歌舞伎の古典の名作といわれ上演されている、「仮名手本忠臣蔵」や「菅原」「義経千本桜」など、数々の傑作を書いた名作者・竹田出雲も、その一家の子孫です。

竹田人形芝居の流れをひく糸繰り人形の名手・結城孫太郎が、昭和30年、河竹繁俊と徳川無声の推挙を受けて、竹田三之助と改名、竹田人形座を東京に復興しました。

三之助の芸養子、竹田扇之助(現・竹田扇之助記念国際糸操り人形館館長)は、父を助け、竹田練場を設け、技芸の伝承と創造の場とし座員を育成し、兄弟弟子である人形作家・竹田喜之助を得て、映画・TV・ショービジネスに活躍。さらに海外公演へと飛翔。竹田の名跡を世界に位置づけ、今世紀最高の人形劇人7名の中に選ばれました。

昭和31年3月東京都無形文化財に指定。海外公演は昭和47年4月ドイツポッハム、ボン他主要12都市の公演をはじめ、エジンバラ芸術祭招待、ストックホルム国立人形劇場、フランス、スウェーデン、デンマーク、アイルランド、イギリス、カナダ、イタリア、ポーランド、ソビエト、アジア諸国など多数。

しかし1979年、不慮の事故で竹田喜之助を失い、竹田扇之助の奮闘にもかかわらず、再び活動を休止することになり、約2,600体の人形たちは竹田扇之助記念国際糸操り人形館に大切に保存・展示されています。

平成2年(1990)、扇之助は故郷なるこの地に移って竹田練場を再建、内外で収集したコレクションと共にこれを飯田市に寄贈しました。竹田扇之助記念国際糸操り人形館は、その壮挙と竹田氏代々の功績を記念し、人形劇による国際的貢献の中核たるべく、飯田市によって建てられたものです。
「竹田氏事歴」( 早稲田大学名誉教授 文学博士 河竹登志夫)より一部引用

竹田人形座
http://www.city.iida.lg.jp/site/puppet/


竹田人形座出身のみなさん

山本由也氏「かわせみ座」

1982年に「かわせみ座」を創立するまで、日本の伝統的な糸操り人形劇団「竹田人形座」に所属していました。「竹田人形座」は、1955年、結城座・9代目結城孫三郎の高弟結城孫太郎が竹田三之助を名乗り「竹田人形」の名跡を継ぐことにはじまります。三之助の死後、竹田扇之助、竹田喜之助によって、「竹田」の名は世界中にとどろきました。まさに昭和期を代表する人形劇団のひとつです。人形師・竹田喜之助は天才の名を欲しいままにしました。1979年の不慮の事故死を遂げるまで、製作した人形は実に2600点。飯田市座光寺にある「竹田扇之助記念国際糸操り竹田人形館」で喜之助の人形を見ていると、人形浄瑠璃が育んだ世界最高水準の日本の人形造形美や大胆かつ繊細にあしらわれた現代人形の創造美など、あまりの美しさに溜息が出るほどです。

生きているような人形
山本由也さんは、竹田喜之助のもとで徹底的に人形美術を学んだ人で、喜之助が亡くなった後、竹田人形座の人形師として世界中で活動していました。その後、かわせみ座を設立、糸操りの繊細さと棒操りの確かな動きを融合させ、もはや「手板」と呼ぶにはあまりに複雑な、オリジナルの「コントローラー」を開発し、人形を自在に操るのです。
初期のかわせみ座の「牧神」はとてもちっちゃなピーターパンのようで生きているような人形です。ハンガリーのとても素敵な小さな人形「ミクロポディウム」と人形の仕掛けまで似ているように思えます。きっと会場のどこかで「牧神」が目を覚ますことでしょう。
最近の作品では「まほろばのこだま」が、スタジオジブリのアニメーション映画監督・高畑勲さんが構成・演出として参画し、話題を集めました。
高畑さんは語ります。「山本由也の名人芸は一度見たら忘れられません。みずから作った人形に、まるで魔法使いのように、いのちを宿らせることができます。人形が動かされているのではなく、本当に生きて動いているとしか思えない・・・(後略)」

(飯田まちなかブログ2008.07.14 Monday より引用)